葬送のフリーレンの感想

葬送のフリーレンは、原作者・山田鐘人×作画・アベツカサのタッグによって週刊少年サンデーで連載されているマンガである。本作は魔王討伐を果たした勇者チームのメンバーであるフリーレンが、魔王討伐後の世界を旅するファンタジー作品である。本作品は2021年に第14回マンガ大賞および第25回手塚治虫文化賞新生賞を、2023年に第69回小学館漫画賞受賞するなど、高い評価を受けている。ここまで高い評価を受けているのには、これまでの王道ファンタジー作品と異なり、魔王討伐に主眼をおいた作品ではなく、魔王討伐後の世界を丹念に描いていることが挙げられる。これだけだと、どういった作品はわからないが、読んでみると一話から何か新しい冒険が始まるんだというワクワク感に満ちた作品であり、キレイな絵も相まって、一度読むとその世界に引き込まれる十分な魅力をもっている。2023年9月からは、主人公・フリーレンの声優に、現在大活躍中の種﨑敦美を迎え、日本テレビ系列でアニメが始まった。アニメが放映されるまで葬送のフリーレンを私は全く知らなかったのが、アニメを見た時の、"これから何が始まるのだろうか"という期待感から、マンガを全巻買い一日で読破した。

  このnoteでは、フリーレンのことをそこまで詳しいわけではないが、ただこの作品を通して感じたことを少しだけまとめておきたいと思い、筆を取る。葬送のフリーレンにはいくつものテーマが散りばめられており、それをひとつづつ丁寧に拾い上げていてはキリがないので、このnoteでは単に私が気になった魔族のことについて簡単な感想を述べる。

   フリーレンの世界にはファンタジー作品に登場するようなさまざまな種族が存在し、我々のヒトをはじめ、フリーレンのエルフ族、勇者メンバーの一人であるアイゼンのドワーフ族などがいる。作中では、これらの種族はお互い同じ場所に住むことはないが、それぞれが共生の道を歩んでいる。一方でこれらの種族とは異なり、本作のストーリーで重要な役割を担う種族に魔族がいる。魔族もヒトと同じように言葉を喋る。そのため魔族と言葉を交わし会話することができる、しかし、言葉を交わすことができるだけである。フリーレンは魔族が話す言葉のことを

奴ら(魔族)にとっての"言葉"は人類を欺く術だ。

葬送のフリーレン 第14話 言葉を話す魔物

と述べるように、魔族にとって言葉は誰かと分かりあうための道具ではない。フリーレンにとって魔族は

人の声真似をするだけの、言葉の通じない猛獣だ。

葬送のフリーレン 第14話 言葉を話す魔物

と表現する。作中におい魔族は人類と敵対し、物語が始まる前には魔族率いる魔王軍と人類は苛烈な戦いを繰り広げていた。フリーレン一行の勇者パーティーが魔王を討伐してもなお、魔王軍の残党は各地で猛威をふるい、人類と敵対し続けている。なぜ、魔族は人類と敵対するのか、その一つの答えは魔族はヒトを食す種族だからである。ヒトを狩るために魔族はヒトやエルフの里を無差別に襲撃してきた。フリーレンも魔族襲撃の被害者の一人であり、物語中の約1000年前にはフリーレンが住んでいた村が襲われた過去をもつ。このように人類と敵対し続けてきた魔族であるが、一方で魔族側も人類側も共に歩み寄り共存の道を探ったこともある。その全ての試みは作品中では結局うまくいっていないのであるが、本記事ではなぜフリーレンの世界の人類は、はたまた魔族は、共存共栄でなかった、ないしはできないのか、その簡単な意見を述べる。多くの人は、その答えはシンプルで、魔族に社会性やヒトへの思いやりがないと切り捨ててしまうかもしれない。しかし立ち止まって考えうると、社会性とはなにか、なぜ魔族は社会性がないのか、なぜ魔族とはコミュニケーションがとれないのかといくつもの疑問が浮かび上がってくる。本記事では、我々が当たり前に有している社会性や、なぜ人は他者を思いやるのか、そもそもコミュニケーションとは何かを論じ、魔族との共存の道を探る。

   我々はなぜ社会を形成するのか。その問いに対して多くの思想家や哲学者たちが向き合ってきた。もっともらしい答えは、社会主義の提唱者のカール・マルクスが言うように「生活のための物質的手段の生産と領有」である。これは第一にヒトが生きていくために欠かせない要素に着目し、社会を形成する契機への答えを与える。原始時代を想像してみると、我々の先祖は食糧を確保するために他者と協力し山谷の鳥獣を狩り、時代が降り、農耕技術が発達してもなお、他者と協働/分業し田畑で野菜や米を育てた。現代においても他者と相互扶助しながら生活するスタイルはかわらない、というよりも過去から現代においても、人間の活動は一人では完結しえず、絶えず他者との協力し合いながら生きてきた。つまりヒトは生きていくためにはどうしようもなく、社会を形成してきたのである。

しかし、果たして我々が本当に社会を形成する理由は、ただ協働するためだけなのだろうか。たった一人で食糧を確保し、生きながらえる術が備わっていれば、誰とも関わりを持つことなく一人で生きることができるのだろうか。おそらくそれはほとんどの人にとって不可能だろう。社会学者の石川准が指摘する通り多くのヒトは

存在証明に躍起になる動物だ。(中略) 『自分は価値ある特別な人間なんだ!』ということを証明しようとすることに人は没頭する

石川准 『アイデンティティ・ゲーム: 存在証明の社会学』 新評論 (1992)

 生き物だからである。返り見ると、私たちは望ましいアイデンティティを獲得し、望ましくないアイデンティティを返上しようと日々努力し、そしてこの存在証明のために人生の大半とエネルギーを消費する。ここに一つの視点が生まれる。ヒトは存在証明のために社会を形成するのだ。

   ただ、自己の存在証明だけであれば他者を必要としないと言う反論があるかもしれない。ここで、精神科医R.D.レインを引用してみよう。

女性は、子供がなくては母親になれない。彼女は、自分に母親のアイデンティティを与えるためには、子供を必要とする。(中略) <アイデンティテイ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのであった。

R.D.Laing 坂本健二、志賀春彦、笠原壽訳『引き裂かれた自己-分裂病分裂病室の実存的研究-』みすず書房 (1971)

すなわち、アイデンティティ

他者による自己の定義づけ

R.D.Laing 坂本健二、志賀春彦、笠原壽訳『引き裂かれた自己-分裂病分裂病室の実存的研究-』みすず書房 (1971)

によってはじめて確かなものになる。

他者が、私を、承認する-----それが、私の存在証明を補い、完成する。そして、同様に、 私が他者の存在証明を、他者ひとりでは得られない承認を与える

奥村隆 『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』 日本評論社 (1998) 

ことで、我々は互いに認め合い補完し合う。レインはこれを「補完性」と呼び、この「補完性」の体系が人々に要請され、社会が形成される。

   これに着目した社会学者・奥村隆はヒトが社会を形成せざるを得ない契機に他者による「承認」に着目し、

社会は、自分ひとりでは獲得しえない存在証明のために、人々が他者からの承認を求めて形成する (中略) 存在証明を分け与えあう人々のつくる社会<承認の体系としての社会>

奥村隆 『他者といる技法 コミュニケーションの社会学』 日本評論社 (1998) 

と仮定する。あたりまえであるが、これだけで社会形成の契機を全て記述できるわけではな。しかし、この体系はあるひとつの社会の性格を浮かび上がらせる。

   他者による承認は、私の自己をより確かなものにし、私にとってポジティブな意味をもつ。しかし他者による承認は常に私にポジティブな働きかけをするだけではない。